夜が明けたら

こうやって…待っているうちに…、いずれ、夜が明けたら…。

「インターネット時代の哲学者」について

「あぁ、君は哲学者なんだね」と言われて「はい、僕は哲学者です」などという話にはなかなかならないと思うが、自らの属性を自己紹介的に哲学者と名乗るというのはある、だろうなと思う。

哲学者とは職業なのか、それで飯を食ってるのであれば、そういった面で職業だと見做せるケースも考えてみていい、と思う一方で、それでは一体、哲学者はなにを生産して飯を食っているのか。

大雑把に言って、言葉を紡いで対価を得るのが哲学者だ、と考えてみる。

と、その時点では、物書きや演説家といった職と何ら変わりないように思える。もちろん、どちらに優劣があるというわけでもなく、ただ行為をみれば同じことだからだ。

いかにも、歴史に名を残すような哲学者が何をやってきたかと言えば、各々の設定した課題に真っ向から取り組んだ、その結果が何やらおもしろげであった。または、後世による辻褄合わせかもしれないが、彼の思想が当世の社会に必要とされたか、あるいは社会を描写していたか、そういうことで評価される、後世に伝わる、という筋があると思える。

結果から述べているカタチなので、この話に説得力を持つ筋はないが、つまり彼らの思想は切り売りされた。少なくともそういう価値があると見做された。ある社会の中である生産の現場に力を与えた、ということがあった、ように思える。成功か失敗かはここでは問題になっていない。

大雑把に言って、人々が呼応する言葉を紡ぐのが哲学である、と考えてみる。

さきほどと変わりないように思えるが、この「呼応」には、ここまでで述べたような意味を含む。つまり、私の生活になにかしらの契機を与える、ような意味を含む言葉である。哲学でない言葉や演説が同様の契機を与えることは、もちろんあり得ると思われ、それでは何の属性を持って、其れ此れと哲学とを区別するのか。

見いだされた意味には「共通の文脈」が必要であって、そこには個人的体験は無力だ。

となれば、これが哲学だ、と考えてみる。

よくないインターネットもインターネットだと言えるか

立ち返って哲学者は上手な対話をしなくては哲学者として然としない。ある哲学者が曲がりなりにも哲学者として、彼自身の生活の正しさとその在り方に常に関心を保ち続けて、その問いを彼の社会的な関係のなかで出来る限り生かす道を勇気をもって模索するとき、インターネット時代の哲学者はどういう風に居るのか。

不機嫌な対話、対話の拒絶、どちらでもよい。それでも快適な対話があれば、そっちのほうがよい。「共通の文脈」がどれくらい多くのひとに、どれだけ見出しやすいか、見出しづらいか、ある問いかけに、自分がどれだけまじめに取り組んでいるのか、いないのか、どうやって自覚するのか。どうして無自覚なのか。

それでは。