夜が明けたら

こうやって…待っているうちに…、いずれ、夜が明けたら…。

インターネットが融けるような感覚

Facebookが疲れている

事情があって以前よりFacebookに触れる機会が多くなった。それはそれなりに楽しい部分がある。一方で連絡用のツールというか、昨日までの生き方を明日以降へ紐付けするための道具みたいな重みがある。

LINEはiPhoneのたまもの

LINEは便利なチャットツールだ。多分、それだけであって、別にLINEじゃなくてもいい。LINEの成功の理由については、iPhoneのMMS風のインターフェイスがきっかけだと思っている。

私がiPhone 3Gに触ったときに、MMSのインターフェイスに1番感動した口だった。メールがバカバカしいなぁと思ったものだった。当時は、まだ知り合いにもiPhoneユーザーが少なく、MMSを生かして連絡を取り合える相手も少なかった。

LINEは、まだソフトバンクからしかiPhoneが使えなかった時代に、AndroidユーザーがiPhoneのMMSアプリっぽいインターフェイスでチャットを行えるツールとして最適だった。そういう意味ではAndroidの賜物である。

2chは本当にまとまるのか

そもそも「まとめ」という奇妙な言葉、学校でしか聞いたことがないというか、話し言葉のような気がするのだが、ここ数年のインターネットでは当たり前の言葉になってしまった。2chについてはマイナーな界隈の話題を追いかけるのには便利で、よく使っていた。最近はほとんど見ないし、実際のところ、この仕組みの複雑さを全然把握できていない。まとまらない。

Twitterは最低、必要限度が

こんなもん、善くも悪くもないわな。在って当たり前のような感じの道具だし、実際、そんな感じになっているし、飽きれば止めればいいし、なんか凄くどうでもいい。

そう仰るメディアって何よ

という記事を読んでいて、ははぁ、なるほど、考えさせられるなぁと、内容についてはあってないような話ではあるが、感覚として近いものを私自身感じているところではあるし、であれば誰しも似たようなことをきっと思っていると考えるのが筋です。

どうやらインターネットで何かしらを語らおうということが、そのツールの差こそあれ、新鮮でないと感じられる。いわば普通のことになった。新しい視点を組み込んだツールが登場すれば、また話は変わる、かもしれない。

これは人々が話題にしたがるトピックス—政治だとか—に因るものだとは思えず、また、コミュニティがオープンだから否かという問題でもなかろうと思われる。

大きな我ら

どうにも『1984』的な発想を『われら』的な装置の中で、とうとうインターネットが生活に融け込んできているというような感覚を抱いているのであって、ウェアラブルデバイスだとか、ウェアラブルコンピューティングだとかありますが、ウェアラブルインターネットというか、そのへんの気味の悪さがある。インターネットから帰還せよ。

 

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

 

 

われら (岩波文庫)

われら (岩波文庫)

 

 

人生に捧げるコントって意味が分からないんじゃない

ご覧になりましたか。「人生に捧げるコント LIFE」の第2シーズン最新回ですよ。

最終回、ではないらしいです。

ゾンビライフ

塚本さん主演。ゾンビ化するコント、全体としてはボツになるのも分かるけれど、個々の要素は好みですね。坪倉さんの演技も意図は分かるでしょう。よい。このコントのタイトル、この記事を書き始めてから再確認したんだけど、味わい深いですねぇ。

マスクを継ぐ者

これは、みなさんの演技がどれもいい。完成度が高い。マスクを被っていて顔が隠れている分だけ、塚地さんの眼力がよく分かる。目の力だけでアレだけおもしろいのは、ズルいでしょう、ツカジくん。

6回転

今回の大ネタ、というわけではないけれど、前回までのムロさんと内村さんの掛け合いのうえでのこのネタ、感無量であろう。これも、みなさんの演技がどれもいい。というより、各々の演者の個性のエグミがなぜか解消されている。バランスって凄い。

まっすぐ彦介はなぜか憎めない

内村さんのキャラは大体うざくって困るのだが、どこか憎めないものだ。チムニー然り。しかし、このキャストってどうやって集めてるんでしょうね。「ご想像にお任せ」は、これは卑怯にも面白いとしか言いようがないけれど、もう少し引っ張って欲しかった。

大体こんなもんですね。よい朝を。

 

「インターネット時代の哲学者」について

「あぁ、君は哲学者なんだね」と言われて「はい、僕は哲学者です」などという話にはなかなかならないと思うが、自らの属性を自己紹介的に哲学者と名乗るというのはある、だろうなと思う。

哲学者とは職業なのか、それで飯を食ってるのであれば、そういった面で職業だと見做せるケースも考えてみていい、と思う一方で、それでは一体、哲学者はなにを生産して飯を食っているのか。

大雑把に言って、言葉を紡いで対価を得るのが哲学者だ、と考えてみる。

と、その時点では、物書きや演説家といった職と何ら変わりないように思える。もちろん、どちらに優劣があるというわけでもなく、ただ行為をみれば同じことだからだ。

いかにも、歴史に名を残すような哲学者が何をやってきたかと言えば、各々の設定した課題に真っ向から取り組んだ、その結果が何やらおもしろげであった。または、後世による辻褄合わせかもしれないが、彼の思想が当世の社会に必要とされたか、あるいは社会を描写していたか、そういうことで評価される、後世に伝わる、という筋があると思える。

結果から述べているカタチなので、この話に説得力を持つ筋はないが、つまり彼らの思想は切り売りされた。少なくともそういう価値があると見做された。ある社会の中である生産の現場に力を与えた、ということがあった、ように思える。成功か失敗かはここでは問題になっていない。

大雑把に言って、人々が呼応する言葉を紡ぐのが哲学である、と考えてみる。

さきほどと変わりないように思えるが、この「呼応」には、ここまでで述べたような意味を含む。つまり、私の生活になにかしらの契機を与える、ような意味を含む言葉である。哲学でない言葉や演説が同様の契機を与えることは、もちろんあり得ると思われ、それでは何の属性を持って、其れ此れと哲学とを区別するのか。

見いだされた意味には「共通の文脈」が必要であって、そこには個人的体験は無力だ。

となれば、これが哲学だ、と考えてみる。

よくないインターネットもインターネットだと言えるか

立ち返って哲学者は上手な対話をしなくては哲学者として然としない。ある哲学者が曲がりなりにも哲学者として、彼自身の生活の正しさとその在り方に常に関心を保ち続けて、その問いを彼の社会的な関係のなかで出来る限り生かす道を勇気をもって模索するとき、インターネット時代の哲学者はどういう風に居るのか。

不機嫌な対話、対話の拒絶、どちらでもよい。それでも快適な対話があれば、そっちのほうがよい。「共通の文脈」がどれくらい多くのひとに、どれだけ見出しやすいか、見出しづらいか、ある問いかけに、自分がどれだけまじめに取り組んでいるのか、いないのか、どうやって自覚するのか。どうして無自覚なのか。

それでは。

End of July 2014

先日の日記から幾らか日数が経った。

Android端末のKindleアプリで問題ない

Kindle Paperwhiteの挙動が怪しくなって、哀しくなった、という思いを綴った。

その後どうしているかしら。Paperwhiteちゃんの電源は入れていない。Nexus 5にKindleアプリをインストールして、今まではこちらはサブみたいな扱いで使ったり、使わなかったりしていたのだけれど、主戦力と化してしまった。検索機能とか、微妙に怪しいところがありますが、すこぶる快適です。

ただし、7インチ以上の端末への葛藤

テキストの書籍(普通の本)、マンガは、Nexus 5のディスプレイでも読んでいてそれほど不満は無い。問題は、雑誌などのPDF(とそれに類する形式)の書籍だ。これ、どうも私には所謂スマートフォンサイズのディスプレイだと厳しい。

選択肢は大雑把に言って3つある。林檎か、検索の悪魔か、嫌われ者の密林の三択だ。林檎のそれらは相対的に価格が高いままだし、iOS 7以降のデザインは奇妙に思われる。検索の悪魔が提供するNexus 7は以前持っていたが、スマートフォンとほとんど同じUIなのが気になる。これは言ってしまえば、iPadにも言える点なのだが、どうもスマートフォンと同じUIとなるのが解せない。細部では異なっているのか知らないけれど。

そこで私はいま、Kindle Fire HDX 8.7が案外、よい商品なのではないかと思っている。

Windowsはなぁ、電子書籍用のアプリの提供が貧弱すぎて比較対象にならない。

ところで、建築家のラゴスの件で

電子書籍といえば「天冥の標 8 ジャイアント・アーク」は読んだかね。大分前に電子化されておったようだが、先日やっと読んだ。第1巻での出来事とやっと繋がる。あまりにも険しい道のりだったが、このまま結末を駆けるのか分からないので、断定的に何かを語ることはできない。

ただし、全巻を通して確認したわけではないので、過去の内容については曖昧な部分もあるけれど、ラゴスの存在意義が妙に気になる。というか、イヤな言い方をすると、気持ちが悪い。何のために彼、彼らはいるのか。どうして登場させた。

そもそも「ラゴス」って何だ。「旅のラゴス」か。ナイジェリアの都市名だそうだが、辿れば語源はゴロゴロと転がっているのだろう。しかし「虚無回廊」的な視点が与えられたものであるし、展開は楽しみですね。

天冥の標VIII ジャイアント・アークPART1 (ハヤカワ文庫JA)
 

 赤い公園「世紀末」の歌いぶりと佐井好子

夜明けにガールズバンドを聴く、とかよく分からないことを言っていたけど、飽きずにコロコロと聴いています。赤い公園の「世紀末」の歌いぶりを聴きながら、佐井好子を連想してしまった。

歌い方というか、歌唱一般に詳しくはないのですが、声の震わせ方なのかしら、この曲のサビと思われる箇所の、ボーカルの佐藤さん、だと思うけど、凄くいいです。

思い出のマーニーなんぞ、知らん

「思い出のマーニー」観てきたひとのたちの感想は概ね良い、らしいので気にはしていますが気に入らないのであります。まずは「アナと雪の女王」を消化しないといけないんじゃないの。

金髪じゃない方の女の子が主役、にあたるヒロインだと思いますが、彼女の髪型がダメです。これには拒否反応だ。なんだっけな、あの髪型。思春期に入ってやや自暴自棄になってしまっているような感覚を体現したような。あの典型はどこにある。荒野か。

ただ、よくよく考えれば、名探偵マーニーの髪型もその延長線上みたいな感じである。

HEROの主人公は誰か、なんて問わない

相変わらず視聴を続けておりますミスコメディー「HERO」ですが、脚本が実に味わい深いものです。第3話で田村検事の小さな男気、プロ意識を、第4話では宇野検事の小さな羽ばたきを、存分に楽しんだ。

その一方で各検事と事務官、久利生と麻木の関係性も構築してくる。心憎いですね。確かに久利生は活躍しているし、木村さんの演じる彼はカッコいいんだけど、上手に相対的な見所のひとつになっていて、それが何より好ましいと感じるのでした。

今夜は涼しいので、なんだか寂しいですね。それでは。

Kindle Paperwhiteでフリーズが頻発するようになる

先日、Kindle Papwerwhiteのバージョンを手動でアップした。

最新のバージョンが、現在時点で「5.4.4.2」ということだが、「5.3.x.x」で止まっていたからだ。通常、バージョンアップは自動でされるものとなっているが、うまく作動しないことも珍しくないようなので、別に気にもしなかった。

更に言えば、別に不自由も無いので「5.3.x.x」のままでもよかった。

バージョンアップ後、単語帳だとか、いくつかの機能の追加があったようだが、大きな変更点は少なくともUI上は見られず、使い続けていた。

ところが、どうもフリーズが多くなってしまった。コミックを読んでいるときは特にヒドい。使用に耐えない。ググってみると、いくつか似たような例が確認されているようにも見える。バージョンのダウングレードはできないみたいだし、ツラい。

それだけ。

「HERO」はコメディ。だから木村拓哉が安定する仮説

「HERO」の最新作第1話、たまたま観られました。あれを面白くなかったと感じる人もなかなか少ないと思いますが、みなさま如何だったでしょうか。

まず、脚本の密度が美しいですね。延長枠があるからできたのかもしれませんが、1時間とちょっとでアレだけテンポよく色々とやってくれちゃうと、いい意味でお腹いっぱいになります。20分を過ぎたところで「まだ20分しか経ってないのか」となりました。

居酒屋の店長さん、これもGoodですね。今回、すごく気になったのはこういうところですね。以前やっていた「HERO」なんてキャストくらいしか覚えていることがありませんが、この作品って1回限りの登場人物にああいった役割を与える機会、多いのでしたっけ。

演出上、うまくない側面もあるけれど、居酒屋の店長に久利生さんのポリシーを引き出させる役割を背負わせるって、なんともドラマであることだなぁ、となるわけですよ。もちろん、麻木がたまたま聞いてしまったっていうシチュエーションが欲しいワケなんですけど、それだけではない。この演出に、昨今の社会問題絡みの話題を織り込んでくるあたり、憎いなぁ。

SMAPに欠かせぬコメディ要素

木村拓哉の主演するドラマってたくさんあるわけで、そのうち私が観たのって5本を超える程度だと思いますが、確かにこれほど役が木村拓哉にフィットしている作品はない。で、それって「HERO」がコメディ基調で演出されているからではないのかと思ったの。

ちょうど放送開始の特別出演で、前番組の「ネプリーグ」に出演していた彼は、普段よりだいぶ上手に自身のコメディ面を出していた。どうもホリケンとの相性がよさそうだなと、観ていて思った。というか、木村さん、ホリケンみたいな芸人になりたそうだ。いや、そんなことはない。

「HERO」では、久利生さんってアウトローでちょっと浮いちゃう存在なわけですよね。そういう彼を本来はマジメで現実的な物語、テーマに放り込んでいるんですものね。あんまりマジメ過ぎちゃうママだと浮いちゃう木村拓哉が、ここにアジャストされる。本当によく出来ています。

中居正広の「味いちもんめ」は言わずもがな、香取慎吾の主演するドラマで好みの作品も似たような傾向が強いと感じるが、草彅さんと吾郎さんは、そうでもない、のかしら。

それでは。 

ほーらみろ ほーらみろ!!

ずっとそのままにしていた「Fライフ」1号をパラパラとめくっていた。

奥付の2ページ前にある高橋聖一の巻末マンガ、台詞のほとんどすべてがパロディ、あるいはそのままで仕上がっていて、これはおもしろなぁと思った。すぐに元ネタがわかるのもあれば、これはどの作品だったかな、となる台詞もある。

またじっくりと読もうと思うが、今月末には2号の発売予定日であるらしい。かつて「ドラえもんクラブ」という企画本があったが、あれも全4号だったと思う。この「Fライフ」も4冊になるみたいだ。「ドラえもんクラブ」はもっと紙質も低い雑誌だったから、キチンと保管しつづけるのが難しく、いつか捨ててしまったのが残念です。

それでは。